無尽講(むじんこう)

そもそも、“講”とは何なのでしょう?

法会の一種であり、経典を講じる法会のことを指します。講会(こうえ)とも呼びます。転じて、民俗宗教における宗教行事を行なう結社のことです。またその行事・会合のことでもあります。講社(こうしゃ)ともいいます。
さらに転じて、相互扶助的な団体や会合のことでもあります。

講についてもっと知りたいですか?≫講とは?

無尽講(むじんこう)や頼母子講(たのもしこう)という「助け合いのシステム」

<写真>「無尽」開催のお知らせ(長野県南佐久郡,昭和19年)

下の資料は、明治29年(1896)の三陸津波に対して、義えん金を送った人物への感謝状です。
注目すべき点は、東北で起きた津波に対して、島根県の人が救恤(きゅうじゅつ=寄付)しているところです。明治29年といえば、もちろん電信も電話もありましたが、東京に電灯がともってからわずか十数年しかたっていない時代です。それでもすでに、こうした遠隔地への寄付が行われていたことは驚きです。


感謝状が届いたのが2年後というのも驚きです

 

日本が誇ってきた「相互扶助」というシステム

そもそも、大惨事であれば寄付行為は行われます。しかし、実際のところ、庶民の日常ではこうした大きな災害は想定外のことです。
むしろ困るのは、年の瀬にツケを払うお金がないとか、突発的な冠婚葬祭でお金がないなどのわずかな金銭の不足です。こうした日常の金銭問題を、庶民は「無尽講(むじんこう)」とか「頼母子講(たのもしこう)」という内輪だけの金銭融通で対処してきました。
ここで、無尽講・頼母子講とは何なのでしょうか。
ここでは政府の見解を引用します。頼母子講の一般的な形態を、当時の大蔵省は次のようにまとめています。

  • イ、田とか組などと称して一定の口数をもっていわゆる講が作られる。この場合講員と口数とは必ずしも一致しなくてよく、一講員が何口かをもつ場合もある。
  • ロ、一定の期間内に掛金が複数回に分割して払い込まれる。この掛金は、給付の前後によって掛金額の異る場合もあれば、また掛金の時期が定期的でない場合もある。
  • ハ、一口について一回だけ一定金額の給付が行われる。しかし、給付の時期によって、特に入札の方法による給付の場合には、給付金額が異る場合が多い。
  • ニ、給付の決定方法が抽選または入札という偶然性をもった方法によってなされる。給付されるものは金銭が通常であるが、金銭以外の財産、例えば建物・自転事・布団といったようなものを給付するいわゆる物品無尽がある。

(昭和30年10月1日付け「官報」付録資料集。ここでは原文にある促音の「つ」を「っ」に改)
つまり、仲間が集まって、掛け金を払い、そのまとまった金を仲間内でもっとも困っている人間に融資するというシステムです。この仲間内金融自体は鎌倉時代の中期から出現したとみられますが、初見史料は建治元年(1275)の高野山文書であるそうです。

頼母子講(たのもしこう)

そして、次の資料は、明治38年(1905)から10年にわたって、現在の堺市(当時は泉北郡鳳村)で行われた頼母子講の規約です。この規約をもとに、頼母子講の実際を見てみましょう。


<写真>「融通講」規約(規約が印刷されているのも驚きです)まず、講自体は12月8日と1月15日の2回行われます。
1株5円(総株数160)で、合計800円が1回の講で集金されます。この800円を100円ずつ8つに分け、それをそれぞれの個人が利子を付けた値段で入札していきます。面白いのは、落札権利者は「もっとも安い値段を付けた者」なのです。つまり、金に困った人間は利子はもちろん、掛け金以上のお金など払えないので、入札額は限りなく0になります。
要は、掛け金5円+αで、100円借りられるのです。12月と1月の2回行われるのは、年末のツケと年始に必要な金を融通するためです。
しかし、これは借金なので、800円すべてが落札される訳ではありません。残ったお金は、雑費5円を引いて落札した以外の人間で分けられます。そして、次の講で落札者は1株あたり5円ずつを株主に配当(借金を返済)するのです。
まさに、仲間内だけの助け合いです。
では、単なる善意のシステムかというと必ずしもそうではなく、掛け金が払えないとそこに利息がついていくのです。
上の例で言うと、講から5日過ぎても掛け金や配当金が払えない場合、1円当たり1日1厘(0.1%)の利息が掛かります。それでも払えない場合は、以前に払い込んだ掛け金を没収されます。
もともと貧乏のため、大抵の場合、掛け金や利息の払いは遅れてしまいます。そこで地元の金持ちが儲かります。金持ちにとっては、すごく儲かるわけではないですが、安全度の高い金融システムでした。

頼母子講(たのもしこう)についてもっと知りたいですか?≫頼母子講(たのもしこう)

ちなみに、中里介山の『大菩薩峠』には、こんなシーンが出てきます。

【お松の病気はその翌日になっても癒(なお)りません。与八は大へんな心配で、枕許(まくらもと)を去らずに看病しているところへお滝がやって来て、
「どうだいお松、ちっとはいいかい。医者に診ておもらいよ、長者町の道庵(どうあん)さんに診ておもらい。」(中略)
お滝は喋りつづけて、いわゆる道庵先生のところへ与八を出してやったあとで、またそろそろとお松の枕許に寄り、
「お前ほんとに済みませんがね、今月の無尽の掛金に困っているものだから。」
お松の持っていた金は、もうこの気味の悪い伯母に見込まれてしまったのです】

いずれにせよ、無尽講や頼母子講は、庶民の間では広く行われていました。
そして、大事なのは、こうした仲間内の金の貸し借りが地域共同体内部の秩序(金持ちと貧乏人の序列)を確たるものにしていったということです。つまり、頼母子講こそが、封建社会を支えた1つの大きな要因だったのです。

ちなみに、講で集まった金の落札権はくじ引きで決まることもあり、この場合は宝くじ的な意味合いを持ちました。
またこの後、利息計算が面倒なことなどで、講を専門に扱う人間が登場していきます。
冒頭に大蔵省の見解がなぜ出てきたかというと、この宝くじ的なものや、組織的な講は取り締まるべきだ、という立場だったからなのです。先程の官報をさらに引用しておくと、大蔵省の立場は次のようなものでした。

【保全経済会のような投資利殖機関・○○殖産金額のような株主相互金融会社・物品の給付に籍口して金銭給付を行う物品割賦販売会社あるいは出資組織を利用して金銭無尽類似のことを行う事業協同組合といったような一連のいわゆる“街の金融機関”は、昭和28年10月の保全経済会の休業宣言を契機として相次いで倒破産をし、さしもの全盛を誇った街の金融機関も一時終息するかに見えた。
しかしながら、そのあと間もなく頼母子講の隆盛が伝えられ、その中には営業化したものも見受けられるようになり、すでに一部には給付不能といったような事態も発生している。そこで、金融秩序の維持と大衆が蒙るかも知れない不測の損害を防止するという観点から、これらに対する早急な取締対策の必要が要請されている。
このような状況に対して関係者の間でその取締対策について、いろいろ検討が続けられてきたのだが、その結果、とり敢えず相互銀行法をもって取締を行うこととなった】(ここでは原文にある促音の「つ」を「っ」に改)

こうして、昭和26年(1951)に相互銀行が誕生したのでした。

この時、政府は、本来の助け合い目的の講は禁止していません。そのことにより、今でも“講”自体が残っている地方もあります。会津では現在も無尽講が盛んだそうです。
以下の資料は毎日新聞福島版のものです。

【月1回集まり、場代(ばだい)と呼ばれる飲食代5,000円と掛け金1万円を支払う。1回の無尽で計20万円となる掛け金は、くじを引いて当選した2人に10万円ずつ配当される。一度配当を受けると次回からはくじ引きに参加できず、メンバーは10カ月で無尽が一巡するうちに、各々が1回ずつ配当金を受け取ることになる。】(毎日新聞福島版2004年3月30日)

とはいえ、ほとんど多くの地方で講は消えていきました。
太平洋戦争終結後、戦災復興のために各方面から無尽会社でも当座預金の取扱を可能としようとする要請がなされるようになったものの、GHQは当時、無尽を賭博的でギャンブルの一つであるとみなしていました。これにより難色を示したため、政府は当時の銀行並の業務を可能としつつも、無尽の取扱いが可能で制度・監督上は「無尽会社」程度で設立可能な金融機関制度を企画しました。そして、1951年に相互銀行法が成立し、日本住宅無尽株式会社を除く全社が相互銀行へ転換しました。相互銀行では、無尽に類似した制度である相互掛金という相互銀行専用商品が可能でしたが、相互掛金制度自体が無尽とは大きく異なるものであったことや、取扱が面倒なことから早期に有名無実の制度となりました。
1981年に銀行法が全部改正された際に、「定期積金等」という定義によって、相互掛金は普通銀行での取扱も可能にはなりましたが、銀行法以外の法律に基づいて設立された長期信用銀行、信用組合、信用金庫、漁協、農協、労働金庫の各根拠法は改正されませんでした。そのため、相互銀行法が廃止された現在では、普通銀行のみが取扱えるものとなっています。しかし、現在まで、この定期積金等の金融商品を発売した銀行はありません。
現在、営業無尽を行う企業は「日本住宅無尽株式会社」の只1社のみです。
無尽から発展したものとしては、現在の第二地方銀行や消費者金融に多く見られます。

日本が高度成長するなかで地方社会が崩壊していったからとも言えるでしょう。村社会が崩壊すれば、仲間内の信頼関係で支えられてきた頼母子講が成り立つはずもありません。
もしかしたら、日本人が経済発展で置き忘れてきた最大のものは、こうした「相互扶助」の精神だったのかも知れません。

お伊勢講


<写真>伊勢神宮 宇治橋

弥次さん・喜多さんで有名な江戸時代のベストセラーの「東海道中膝栗毛」は十返舎一九の滑稽本ですが、これは、“お伊勢講”のことを今に伝えています。
当時の庶民にとって伊勢神宮を参拝する“お伊勢参り”は念願でありました。しかし、当時の庶民にとって、伊勢までの旅費は相当な負担でした。そして助け合いのシステムとして、「お伊勢講(おいせこう)」というものも生まれました。

お伊勢講についてもっと知りたいですか?≫お伊勢講(おいせこう)

ねずみ講

無尽講(むじんこう)や頼母子講(たのもしこう)は江戸時代に発達した日本独自の直接金融を元にした同業者間金融機関であることを上で見ました。もうご確認の通り、現在の第二地方銀行や信用金庫や信用組合のほとんどが、この無尽講・頼母子講を基礎としています。
実は、日本は世界で初めて先物相場(米相場)を大掛かりに動かしていた国なのです。金融に関して、江戸時代は、世界で一番発達していました。
その中で、マネーゲームの要素で始まったのが、ねずみ講です。(※現在は、もちろん、違法です。)
ねずみ講というのは、メンバーに金品を出させてグループを作り、新しいメンバーが加入する度にそのメンバーから取った金品をグループ内で分配する仕組みで、法律上は無限連鎖講といわれている違法行為です。

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